2016年03月07日【産経ニュース】伝える ある震災遺族の5年(1)
大学の卒業式に出席し、長男の健太さんを囲む田村さん夫妻=平成20年3月22日、東京都千代田区(田村孝幸さん提供)
七十七銀行女川支店に勤める息子は戻らなかった 「山に避難したはずだ」…そう信じていたのに
■「抱きしめてあげればよかった」 銀行の対応に募る不信
「息子の部屋にあるものが、何もかもいとおしく思えるんですよ」
東日本大震災の津波で七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の従業員だった長男、健太さん=当時(25)=を亡くした田村弘美さん(53)。大崎市にある自宅2階の一室でつぶやいた。
首都圏にある専修大を卒業した健太さんは平成20年4月、同行に入行した。父、孝行さん(55)は単身赴任中。大学生だった妹も東京で暮らしており、配属後2年間は弘美さんと実家に2人。始業より1時間早く仙台駅に到着し、支店近くの喫茶店で新聞に目を通すのが日課だった。
「あの気丈な健太がしょげるくらい仕事は大変そうだったけど、誇りを持って打ち込んでいました」
支店で窓口業務に従事しながら、研修所では資格取得に向けて勉強する日々が続いた。「3年は頑張ってみなさい。誰もが通る道だから」。弘美さんは健太さんを励まし続けた。
23年3月6日、入行3年目で女川支店に異動していた健太さんは、実家へ帰省していた。石巻市の単身寮で暮らしていたが、2週間後には寮を出て同市内のアパートに引っ越す予定で、交際中だった女性も両親に紹介するつもりだった。「また来週ね」。その日の夜、夫妻は寮へ帰る健太さんを玄関先で見送った。
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そして、あの日-。健太さんが勤務中だった女川支店を大津波が襲った。支店には帰宅した1人を除く行員13人がいた。
夫妻は「支店の近くには山がある。そこに避難しているはずだ」と信じていた。だが、翌日も翌々日も安否はわからない。一家は仙台市青葉区の同行本店へ向かった。
「支店長から『屋上に避難する』とだけ連絡を受けただけで、その後は分かりません」。孝行さんが本店1階守衛室から内線電話をかけると、電話口の人事担当者はそう告げた。「なぜ下まで降りてきて直接説明しない」。その対応に、怒りをぶちまけた。
3月15日、銀行側が夫妻宅を訪ねた。人事担当者は「従業員らを屋上に避難させた支店長の判断は、同行の災害対応マニュアルに沿ったもの」と説明したが、謝罪は一言もなく、夫妻の不信感は募っていった。
その後、夫妻は自力で健太さんを捜そうと、長靴を履いて現地に入った。支店のすぐ近くに高台があったこと、同行した銀行幹部がスーツ姿だったことが強く印象に残った。
震災から10日後、氏家照彦頭取が夫妻の自宅を訪れ、経緯などを説明した。「目を見て話しろ」。強い口調で言い放ったのは、健太さんの妹だった。怒りに震えていた。それ以降も夫妻は週1回は女川を訪れ、健太さんを捜した。「どこかで生きている」。一縷(いちる)の望みが支えだった。
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震災から半年後の9月26日早朝。支店から約3キロ離れた海上で健太さんは見つかった。裏側に「田村」と記されたズボンにワイシャツ、ネクタイ姿だった。安置所には身に付けていた服などが並んでいた。「健太が初めて作ったスーツだ」。弘美さんは一目で気付いた。「息子さんのものでしょうか」。警察官の言葉に、声を上げて泣き崩れるしかなかった。
「抱きしめるなり、手を握るなりしてあげればよかった…」。弘美さんは今も悔やんでいる。
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東日本大震災から5年。最愛の息子に先立たれた両親が、この5年をどう生きてきたのかを追った。
引用: https://www.sankei.com/region/news/160306/rgn1603060024-n1.html (産経ニュース)