2018年11月16日【宮城県古川高校野球部を甲子園へ】「自分の命は自分で守って」子どもたちに震災語り続ける (朝日新聞)
*もう何年前になるだろうか。海外に住んでいる私は一時帰国した際に田村さんの家を初めて訪ねた。健太君の御墓参りをするためだ。同じ野球部の後輩として、津波で亡くなられたという痛ましい報告を、当時の佐々木監督より受け取った。半年後に見つかった彼の亡骸はあの野球部グラウンドを一周したのち、荼毘に付されたという。田村健太君は平成15年、ベスト8に入った時の捕手で、大事にしていたミットを生き写した彫刻のある真新しいお墓だった。
気さくなこのご夫婦は、以来その健太君が大津波にのまれたまさにその場所で、来る日も来る日もただ語り部として生活している。現代にこんな人たちがいたのかと思うと、まったく頭の下がる思いだし、なんとなく人間が愛おしいものに思えてくる。このご夫婦を突き動かす力は一体なんなのか? なんの報酬もなく、なんの名誉もなく、ただ亡くなったご子息の側に寄り添っていたい、その痛みや悲しみを少しでも共有してあげたい、その思いだけなのだろう。
今回、古高が東北大会出場を決めた時、ご夫婦は女川から帰りの車中でラジオから流れる古高校歌を聞いて、涙が止まらなくなったという。あの時のこと、健太君のグラウンドでの姿が脳裏をよぎったとのことだ。
現在、どんな境遇であれ、どんな世代であれ、古高野球部OBは、同志である健太選手の死を忘れるべきではない。このブログの背景にたまに使う画像の左上隅、キャッチャーは田村選手である。草創期より古高の活躍を見守ってもらっている。また今回、トップページのサイドにも伝統の古高校旗に包まれた彼の勇姿を掲げることにした。彼の「2」を欠番にするわけに行かないので、永久欠員という感じで、今後もブログの仕様は変われどなんらかの形でその魂をどこかに掲載しておきたいと思う。
時間があったらぜひどなたでも彼の魂に会いに行って欲しいと思います。そのミットと彼は、旧松山町(宮城県大崎市松山千石)に眠っています。
背番号2が田村健太選手
「自分の命は自分で守って」子どもたちに震災語り続ける (朝日新聞)
「地震が来たら、自分の命は自分で守ってほしい」――東日本大震災の津波で長男、健太さん(当時25)を亡くした田村孝行さん(57)=宮城県大崎市=が10日、女川町でサッカークラブの小学生ら約20人に語りかけた。
健太さんは七十七銀行女川支店に勤務中、震災に遭遇。上司の指示で屋上に避難し津波に襲われた。12人が犠牲になり、8人は行方不明のままだ。
支店があった近くの慰霊碑で毎週末、震災当時の状況を語る活動を続けて約5年半になる。妻の弘美さん(55)は「ここに来たら息子に会えそうな気がする」と話す。「生きたくても生きられなかった命がある。夢に向かってがんばって欲しい」と訴えかけた。
子どもたちを引率する、大豆戸FC(横浜市)の末本亮太代表(39)は「自分で考える力を養ってほしい。スポーツマンだからこそ、人間性を高めていきたい」と話す。
日航ジャンボ機墜落事故の遺族で作る「8・12連絡会」の美谷島邦子事務局長も慰霊碑を訪れ、手を合わせた。ともに企業防災を訴え、墜落現場の御巣鷹の尾根に慰霊登山するなど交流を深めている。鎮魂の願いを込めてシャボン玉を飛ばした。弘美さんは「きっと息子にも届いていると思う」と涙ぐんだ。(矢木隆晴)
引用:https://furuko-baseball.blogspot.com/2018/11/blog-post_16.html (宮城県古川高校野球部を甲子園へ)