2020年09月24日「1人の死」からの時代転換の息吹き 柳田 邦男先生
田村健太という若者がこの世に生き、銀行員として希望に満ちた人生を歩み始めていたことは、誰も否定できない事実だ。青年健太がこの世に生を受けた時、両親は名前をつけ、わが子を他の誰でもない存在にした。
その1人の若者が、勤務先の組織的な防災対策の不備ゆえに、3.11大津波の時、いのちを奪われた。両親の悲嘆は想像する余りあるほど深かった。しかし、両親は、かけがえのない息子の死を悔やむだけの暗闇に封じ込めるのでなく、人間のいのちが守られ大切にされる社会創りのために、自分たちの人生後半を投入しよう決意さえた。
そのような人生の生き方の転換をしてこそ、息子の死の意味を暗から明に転じ、息子の魂の復活・再生はあるのだと考えらえたのだろう。
その活動の基盤として設立されたのが、「健太いのちの教室」であり、「健太いのちの農園」なのだ。拠点となる「教室」は、健太君の母・田村弘美さんの実家(農家)の家を改装し、小さな空間ながら、大震災の記録写真や活動の記録などをメディアの協力も得て展示するとともに、語り伝える集いのできるスペースも確保してある。自然体の「教室」言える。
その現地は、松島の内陸の山沿いの一角で、ほどほどの田んぼと畑が、「教室」から一望できる。学びに訪れる若者たちや子どもたちが、農作物の栽培や収穫に汗を流せる。まさに大地に根を下ろした活動ではないか。
私は、大震災から9年を迎えた2020年3月に、「健太いのちの教室」と「農園」を訪れ、早春の穏やかな風景の中に立った時、心の中にその現場への深い愛着の感情が心に染み込んでくるのを感じた。
田村夫妻の活動は、さらに外に向って広がり、つながりの輪を幾重にも重ねている。毎年1月17日には、阪神・淡路大震災の被災地・神戸を訪れ、被災者たちとの交流を深め、8月12日には日航機墜落事故(520人死亡)の現場である群馬県上野村の御巣鷹山に慰霊登山をして、尾根に集う様々な事故や災害の被害者・被災者たちとの連帯を確かめ合っている。
事故や災害で大切な家族を失くした人々の活動のかたちは多様だが、田村夫妻の「健太いのちの教室」や「健太いのちの農園」を設立して、学びと啓発とつながりを発展させていこうとする活動は、これまでにない新しい広がりを期待できるので、私は注目している。そこには、経済性・効率性ばかりが支配的になったぎすぎすした現代日本の社会に、「いのちこそ第1」「他者への思いやり、人のつながりこそ大事」という価値観を、ささやかながら地道に、そして確実に取り戻していこうとする息遣いが感じられるのだ。