2016年03月08日【産経ニュース】伝える ある震災遺族の5年(3)

阪神大震災の慰霊法要に参加した田村さん夫妻。津波の犠牲となった息子の健太さんの名が書かれた竹灯籠を見つめる=1月17日午前5時38分、神戸市長田区の御蔵北公園(頼光和弘撮影)

阪神大震災の慰霊法要に参加した田村さん夫妻。津波の犠牲となった息子の健太さんの名が書かれた竹灯籠を見つめる=1月17日午前5時38分、神戸市長田区の御蔵北公園(頼光和弘撮影)

 

 

神戸、御巣鷹山、息子の母校、そして女川…「絶対に忘れさせない」の思いで語り継ぐ

 

■惨事なぜ起きたのか追及

1月17日の早朝、神戸市長田区の「御蔵(みくら)北公園」。100本を超えるろうそくの灯りが揺れる中、全国の僧侶らによる法要が執り行われた。そこには、田村孝行さん(55)夫妻の姿があった。

「絶対に忘れさせない。これからも語り継いでいきます」

平成7年の阪神大震災が発生した午前5時46分、犠牲者に祈りをささげた妻の弘美さん(53)は決意を新たにした。

「ただただ感謝。ここまでしていただいて…。健太が生きていたときのことを伝えることができた」

法要の後、夫妻は阪神大震災の犠牲者遺族と面会。その遺族や長田区の地元住民らが協力して公園近くで開いた写真展には、津波の犠牲となった息子の健太さんの写真も加えられた。

孝行さんは健太さんの就職活動中、「地域密着で地元に貢献する企業が良いのでは」と助言したことがある。写真展に飾られた健太さんの姿は、七十七銀行南町通支店(仙台市青葉区)に勤務していたとき、大崎八幡宮で行われた「どんと祭」の裸参りに白装束で参加する姿だった。

 

「『宮城に帰ってきてほしい』という親を思う気持ちがあったのだろう」

大学生活を東京で過ごした健太さんが七十七銀行を就職先として選んだ理由についてこう語った孝行さんは白装束の健太さんの写真を見つめながら、「親孝行の息子を誇りに思う…」と目頭を熱くした。

夫妻は昨年8月、発生から30年を迎えた日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者を慰霊しようと、遺族と御巣鷹山に登った。

11月には、初めて健太さんの母校である専修大法学部(東京都千代田区)で、津波訴訟の原告側弁護団とともに企業の防災や津波訴訟に関する公開講義に登壇した。

全国を飛び回りながらも24年の夏頃からは、健太さんが犠牲となった女川支店の跡地での語り部活動も続けている。

そんな夫妻のひたむきな活動を聞き、阪神大震災の法要で面会した犠牲者遺族の一人の女性がこう声をかけてきた。

「お二人はすごい。私は20年以上たったいま、ようやく話せるまでになったのに…」

 

後日、弘美さんは語り部を始めたころを振り返り、その胸の内を明かした。

「悲しいのだけれども、悲しみに浸る余裕もなく、『なぜこんな惨事が起きたのか』を追及し、話して伝えなければならないという一心だった」

体力や精神の限界が来る前にやり遂げなければならない-。そんな焦りもあった。

「健太の命は大きな役目を果たした。また、健太に会ったとき、『世の中に役立ててきたからね』と言えるようにやっていきたいんです」

 

 

引用:https://www.sankei.com/premium/news/160308/prm1603080006-n1.html (産経ニュース)

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