2016年03月10日【産経ニュース】伝える ある震災遺族の5年(5)

「健太いるかなって」…息子の部屋から夫妻の一日は始まる

 

 

■結婚を約束した女性との写真

田村健太さん=震災当時(25)=が幼少期、宮城県東松島市の矢本海岸へ家族で遊びに訪れたとき、父の孝行さん(55)と浜辺で撮影した写真がある。

それとは別に、健太さんが亡くなる1年余り前に同じ場所で撮った写真もある。結婚を約束した女性と一緒だ。

平成27年9月19日。健太さんの誕生日であるこの日、夫妻は同県栗原市内の飲食店に招かれていた。並んだ料理の中にミートソーススパゲティ。母の弘美さん(53)が振り返る。

「健太の大好物だったから、今でも誕生日には家で作るんですが、この日は特別に用意してくれていたんです」。ミートソーススパゲティを用意していたのは、健太さんと結婚を約束した女性。彼女は勤務先の飲食店に夫妻を招き、健太さんの30歳の誕生日を一緒に祝ってくれた。


同県大崎市の田村さん夫妻の自宅には、健太さんの写真が居間の壁を埋め尽くすほど飾られている。

「捕手一筋だった」

健太さんがキャッチャーマスクを外し、投手に向かって大声で叫ぶ姿を写した写真を見ながら孝行さんはつぶやいた。小学3年から大学3年までの12年間、野球に打ち込んだ。

「高校野球に特に強い思い入れがあったのかしらね」と弘美さん。大学時代の軟式野球部の集合写真では、チームメートが深緑色の帽子を被る中、一人だけ高校時代の野球部の紫色の帽子を被っている。

27年7月11日、仙台市民球場のライトスタンドに健太さんが愛用した紫色の帽子を被った孝行さんの姿があった。

この日は夏の甲子園出場をかけた高校野球の県大会が行われていた。スタンドの最上段には紫色の横断幕が掲げてある。夫妻が震災翌年の24年に健太さんの母校である県立古川高校の野球部に贈ったもので、白字でこう記してある。「ONE FOR ALL 憧れの甲子園へ とどけこの想い!! いざ出陣!!」。健太さんが野球帽のツバ裏に書き込んでいた言葉だ。

「健太ならどう戦うか」。孝行さんが試合の行方を見守る中、古川は第2シード校の柴田に9-7で勝利した。会場には健太さんとともに甲子園を目指して汗を流したチームメートも駆けつけていた。孝行さんは「帰ったら健太に、同級生と一緒に応援して母校が勝ったと伝えたい。きっと喜んでくれるだろう」とほほ笑んだ。


写真が飾られている1階の居間から廊下に出る。そこから階段を2階へ上がったところが健太さんの部屋だ。扉はいつも開けてある。

夫妻は毎朝、2階の寝室で起床すると、健太さんの部屋の前を通って1階の居間へ下りていく。

「毎朝ちらっとのぞくんですよ。健太いるかなって」

今朝もまた、この部屋に目をやる。夫妻の一日が始まる。=おわり

 

引用:https://www.sankei.com/premium/news/160310/prm1603100008-n1.html (産経ニュース)

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