2016年03月07日【産経ニュース】伝える ある震災遺族の5年(2)

仙台高裁が控訴審判決を言い渡すのを前に、原告遺族らと裁判所に入る田村健太さんの母、弘美さん(右)=平成27年4月22日、仙台市青葉区(岡田美月撮影)

仙台高裁が控訴審判決を言い渡すのを前に、原告遺族らと裁判所に入る田村健太さんの母、弘美さん(右)=平成27年4月22日、仙台市青葉区(岡田美月撮影)

 

息子が誇りにしていた東北有数の大企業を相手に訴訟…それは断腸の思いだった

 

■同じこと繰り返さない会社に

「最高裁から連絡があり、上告は棄却されました」

震災5年の節目まで1カ月を切った先月18日の夜。勤務先から帰宅中だった田村孝行さん(55)の携帯電話に、代理人弁護士から連絡が入った。原因究明を望んで銀行を相手取って損害賠償を求めた訴訟はこの日、遺族側の敗訴が確定した。

「審理してほしかった。これが司法の限界か…」

「支店から走って1分しか離れていない高台があるにもかかわらず、なぜ高台に逃げずに支店屋上にとどまったのか」

平成23年12月、田村さん夫妻を含め9遺族で被災者家族会をたち上げ、銀行に原因究明や謝罪、支店解体の取りやめなどを求め続けた。銀行からは、調停や裁判外紛争解決手続き(ADR)などの提案を受けたものの、家族会の要望に対する十分な回答は得られなかった。

それから半年後、夫妻が見つめる中、支店の解体工事は始まった。「このままでは、健太の死が何もなかったことにされてしまう」。こうして夫妻は他の2遺族とともに、震災から1年半後の24年9月11日、提訴に踏み切る。銀行を相手取って原因究明と約2億3500万円の損害賠償を求めたものだった。

 

「息子が誇りにしていた銀行を相手に訴訟を起こすのは断腸の思いだった」

孝行さんは振り返る。「裁判なんてしても息子は帰ってこない」「どうせ負ける」-。そんな心ない言葉を浴び、東北有数の大企業を相手にする重圧ものしかかった。

それでも、「声を上げなければ防災対策は改善できない。同じことを繰り返さない良い会社になってほしい」。そんな強い思いが背中を押した。

《女川支店では地震直後、支店長の指示で従業員13人が2階建て支店屋上(高さ約10メートル)に避難。津波にのまれて支店長ら12人が死亡または行方不明となった。町指定避難場所の堀切山は支店から約260メートル先。同行のマニュアルには堀切山が避難場所と指定されていたほか、21年に同店屋上も追加された。

26年2月の1審仙台地裁判決は「屋上を超える巨大津波を予見することは困難」と指摘。「支店長の判断が不適切だったとはいえない」として遺族側の請求を棄却した。

控訴審でも、遺族側は町の指定避難場所だった堀切山に逃げるべきだったと主張したが、27年4月の2審仙台高裁判決も遺族側の控訴を退けた。そして、今年2月には最高裁第2小法廷が1、2審判決を支持、遺族側の上告を棄却。遺族側の敗訴が確定した》

 

夫妻は先月20日、仙台市内で弁護団と記者会見を開いた。「銀行にはきちんと向き合ってほしかった」。田村さんの妻、弘美さん(53)は悔しさをにじませた。

「これ以上悲しむ家族を作ってほしくない。銀行は再発防止に努め、慰霊という形で息子に手を合わせにきてもらいたい」

孝行さんは、日航ジャンボ機墜落事故やJR福知山線脱線事故の例を挙げ、両社の社員への安全教育や遺族との向き合い方について触れ、「銀行は行員に女川支店の反省や教訓を伝えてほしい」と強調。原因究明や管理者に対する罰則などに関して、制度化の必要性を訴えた。

「5年間は本当にあっという間。ご縁のある皆さんが背中を押し、支えてくれたおかげ。精いっぱい戦い抜くことができた」

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